柴田コウメイ Ko-may Shibata

Profile

柴田コウメイプロフィール写真

大阪府出身。
ジャズピアニスト。ジャズ理論研究家。
 大阪府出身。京都外語大学卒業後渡米。バークリー音楽大学卒業。
 1983年、ニューヨークバッカス音楽コンクールジャズ部門にて優勝、金賞を受賞。
 ニューヨークでピアニストとして活動。帰国。音楽理論の研究生活に入る。
 ジャズコード理論におけるコードスケールの発展、奏法の追求、ジャズ理論を用いたクラシック音楽の解析といった成果を経て、2013年ソロアルバム「JAZZ ROCKET」を発表。2015年歌手坂田佳子とのデュオアルバム「ひざまくら」、2017年ソプラノ歌手髙野久美子とアルバム「瞬~プログレッシブ・オペラ」、同年ジャズギタリストneaとデュオアルバム「the language of jazz」2018年「JAZZ ROCKET2」をリリ-ス。いずれもジャズ専門誌にて高い評価を得る。
 縦横無尽のアドリブと多面的な表現力、天性のリズム感が裏付ける官能的なサウンドに定評があり、webにおいてもYouTubeの登録者数は5000人を越え人気を博している。

 

discography

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Biography

こどものころ

僕の家  
僕がピアノを始めたのは、小学校三年生の頃でした。父は会社員、母が美容師で、家族には音楽をしている人がいなかったので、気楽なお稽古でした。 家が美容院だったので、お店にはいつも、ラジオの音楽が流れていました。住み込みの店員さんたちの部屋にもステレオが置いてあって、最新流行のレコードがたくさん置いてありました。

ピアノのおけいこ
 練習はあまりせず、田んぼでザリガニ取りばかりして、どろどろの手でお稽古に行ったので、先生が苦笑いをしていました。 その頃の僕の特技は、ピアノを弾きながら笛を吹くことでした。 ピアノを習ったのは、小学校六年生までの三年間だけでした。

ピアノを弾きながら笛を吹く子供の頃の写真

音楽をおぼえたころ

ロック少年
 中学生くらいのころから、僕は、ローリング・ストーンズやレッド・ツェペリンなどのロックを聴くようになりました。
 ドラムが欲しくてたまらなくなり、両親にドラムをねだりましたが、買ってもらえませんでした。
 当時、ロックは不良の音楽と言われていました。
 ロックに触れる少し前の頃、母やお店の店員さんたちと一緒に行った箕面の高原プール(現箕面温泉スパーガーデン/大江戸温泉物語)で、僕は、ザ・タイガースのライブを見たことがあります。彼らは、まだ、ザ・ファニーズと名乗って、ローリング・ストーンズのカバーを何曲も演奏していました。今でも忘れられない体験です。
 そのとき、ボーカルの沢田研二さんは、
「僕たちは、家庭的な雰囲気でロックをやってゆきたい」
 と、何度も繰り返して言っていました。
「自分たちは不良ではない」
 と宣言をしなければ、とてもロックなど受け入れてもらえなかったのです。
 「不良の音楽」を禁止された僕は、スティックだけを買って空き缶や鍋を叩いていました。
 そのうち、家庭教師の先生にギターを教わり、ギターに夢中になりました。
 先生はクラシック・ギターでしたが、エリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスの影響を受けていた僕は、やっぱりロックや和製ポップスばかりを弾いていました。

バンド活動
band.jpg高校に入ると、バンドを作りました。
 中学のときには反対されたロックでしたが、箕面で見たザ・ファニーズがザ・タイガースになって、大流行して、「ロック=不良」のイメージを払拭していたので、両親に反対されることはありませんでした。
 ローリング・ストーンズなどをコピーして、演奏して、文化祭などでギターを弾いたものでした。このバンド活動は、大学一年生くらいまで続きました。
 ある日、バンド友達の家でピアノを弾いて音合わせをしていると、友達のお姉さんが、
「光明くんはジャズピアノに向いてる」
と言ってくれましたが、そのときは気にしませんでした。

ジャズ研究会
 大学二年生になったとき、大学でも音楽がやりたくなって、軽音楽部に入部することに決めました。そこに入れば、思う存分ロックのドラムを叩いたり、ギターを弾いたりできると思っていたからです。
 先に軽音楽部に入っていた友人に入部希望の旨を話すと、まずは見学に行こうというので、彼についていったのが運の尽きでした。確かに彼は軽音楽部の部員でしたが、ジャズ部門でアルトサックスを吹いていたのです。
 僕が連れて行かれたのは、ロックではなく、ジャズ部門でした。
「ピアニストが足りなくてねー」
 彼は既に先輩に話を通していて、僕の目の前には、キーボードが置いてありました。
 僕は、わけがわからないまま先輩たちのセッションに参加し、そのままジャズ部門のピアニストになってしまいました。
 それまでロックしか知らなかった僕は、ジャズを一から勉強しなければなりませんでした。
 先輩についていくのがやっとだった僕は、毎日毎日練習に明け暮れ、ライブハウスやコンサートへ行ってはプロの演奏を聴いていました。
 一年くらいでようやく形になりましたが、理論はわからず、フィーリングだけに頼った我流で弾いていただけに、僕は、すっかり天狗になっていました。

大学時代の写真

日本とアメリカ行ったりきたりのころ

留学を決めたときのこと

大学を卒業する直前、ガールフレンドが、アメリカの学校でジャズを学べば僕の才能がいい方向へ伸びるのではないかと言って、アメリカの音楽学校の住所録をくれました。彼女は、美術の大きな展覧会に入賞したりしていたアーティストでした。
 僕は、バークリー音楽院へ行くことに決めました。
 両親に話しても特に反対もされず、僕は、気がつくとバークリーの門をくぐっていました。

バークリー音楽院(第一次)
 ボストンに着いた僕は、ドーミトリー(学生寮)に入りました。
 そこには世界中から集まった、才能のある学生たちがたくさんいて、僕の天狗の鼻はあっというまにへし折られてしまいました。
 でも、バークリーでの理にかなった音楽教育は、僕を夢中にさせました。
 バークリーシステムと呼ばれる音楽理論だけでなく、おおらかな教育方針も、僕に大きな影響を与えてくれました。
 僕は小中高等学校では成績が悪く、落ちこぼれでした。 
 小学校の通知簿には必ず「落ち着きがない」と書かれていて、小学校2年生のときには、あまり学校へ行かないので
「光明ちゃんはこのままだと留年するよ」
 と先生におどかされてやっと学校へ行くようになったくらいです。それでもただ行くようになっただけで、勉強は、ノートをとったことがなく、宿題さえもしたことがありませんでした。丸暗記が苦手だった僕は、わけのわからないものをわけのわからないままに強制的に憶えさせられる勉強というものに、まったく興味がもてなかったのです。
 でもバークリーでは、ただ暗記するだけではなく、その中身の構造をきちんと教わり、暗記したことではなく、それを使って作ったものが評価されたので、俄然勉強が面白くなりました。
 あれだけ勉強がきらいだった僕が、一日に五時間以上ピアノに向かい、練習と研究に没頭するようになりました。
 ただ、音楽を始めるのが遅かった僕には、バークリーで習ったものを身につける練習の時間が人の何倍も必要でした。
 僕は、卒業を前にしてバークリーを休学し、ニューヨークに行ってジャズピアニストとして活動しながら、練習に励みました。

バークリー音大の頃の写真

ニューヨークでの活動
 ニューヨークでは、「ブルックリン音楽院」に通学しました。そこでは首席だったので、講師だったサックスプレイヤーのチャールズ・ハイネスにスカウトされ、彼のバンドに入り、一年近く一緒に演奏していました。Bacas音楽コンクールで金賞を受賞したのもこのときのことです。そのとき、審査員に
「このままニューヨークにいてチャーリーと一緒にやりなさい」
と言われ、しばらくニューヨークで活動していましたが、ある日、バークリーで一緒だった日本の田野城寿男さんから電話が入り、バンドの誘いがあったので、日本に帰国しました。

東京時代
 帰国した僕は、田野城さんのバンドで活動しながら、練習をする毎日でした。
 そのあと東京に出て、自由が丘に居を構え、六本木や青山のピアノバーやライブハウスで演奏する毎日でした。
 喜ばれることもありましたが、クレームがつくこともありました。
仕事の傍ら、渋谷や銀座、新宿に出かけて行って、三四朗さん(sax)と一緒にストリートミュージシャンをしていました。今でこそストリートミュージシャンは珍しくありませんが、当時の日本では、道で音楽を演奏するという発想さえありませんでした。僕たちは、店のシャッターが閉まるとそこへ行って演奏しました。ピアノはないので、僕はボーカルでした。
 バブルに湧く東京を、ほとんど毎日、駆け回るように演奏をしていました。ときには、一日に二軒をかけもちで演奏していました。生徒をとって教えることもはじめたのもこの頃です。
 さすがのハードワークに倒れた僕は、兵庫の実家に帰ってしばらく静養しなければならなくなりました。
 休むだけ休んだあと、僕は、もう一度バークリーに行くことにしました。

バークリー音楽院卒業とニューヨーク
 一回目のバークリーで得たものは身につけていたので、二回目では戸惑うこともなく、選考に通過して奨学金で勉強をすることもできました。それはただ成績がよかったというだけではなく、ニューヨークで一緒だったチャールズ・ハイネス(sax)のバンドにフェルナンド・バランコ(Dr)の名前があり、彼のような素晴らしいドラマーと共に活動していたことも評価されてのことでした。
 残した単位を取得した僕はバークリーを卒業しました。卒業式の写真で握手をしているのは、ジョージ・ベンソンです。
 僕は、再びニューヨークへ行きました。二度目のニューヨークは、音楽資料を集めることが主な目的だったので、観光のようなものでした。

二回目のバークリ音大時代の写真

SPOONFUL MUSIC

研究生活
 日本に帰った僕は、ピアニストとしての活動は休止し、持って帰った資料や日本で入手した資料で、ジャズを分析し、実験をかさねる研究生活に入りました。
 寝ることと食べることさえでれきればいいと思って兵庫県猪名川町の実家に戻りました。
 山奥の、自然の豊かな場所だったので、練習にも没頭することができました。ボストンにいるチャーリー・バナコスという先生と録音テープのやりとりで理論や奏法を学んでいましたが、それだけが他人との接点でした。
 いいとしをして結婚もせず、家でピアノばかりを弾いていた僕は、孤独だけではなく、世間の目を気にする自分とも戦わなければなりませんでした。
 人目につく昼間には出歩けず、夜に散歩することだけが気晴らしでした。
 それでも、ピアノを弾けるようになりたかったので、僕にはピアノしかなかったので、僕は、ピアノを弾き続けました。
 そうした生活を数年間続け、僕も僕なりの理論を確立することができたので、僕は、生徒をとってジャズを教えることにしました。

SPOONFUL MUSIC
 最初は日生中央駅前の文化センターで、次に実家にある自分の部屋でピアノやボーカルを教えていました。それから大阪に出てきて開いたのが「SPOONFUL MUSIC」です。
 いずれジャズピアニストとしての活動を始めるために一時的に開いたつもりの教室でしたが、生徒に教えることによって、新たな理論を発見したり、理論に頼るだけが音楽ではないことに気づかされたりして、研究がさらに進んだのでやめられなくなったので、なおさらライブに出ていられなくなりました。
 それだけではなく、生徒が伸びてゆくことにも夢中になっていました。ジャズに触れ、さまざまな個性を自由に表現をする生徒たちは、僕の励みにもなりました。
 生徒たちには、本当に多くのことを教えられました。

演奏家として
 僕が演奏することを本当に楽しむことができるようになったのは、2012年の暮れあたりです。
 最初は呼ばれたライブで弾くだけでしたが、単独のライブをしてみたくなって、僕の教室から歩いて5分の場所にあるBar菩南座さんに駆け込みで申し込んだところ、快く承諾していただき、12月24日、クリスマスライブをしました。
 なので、僕は、毎週水曜深夜24時にここでライブをさせてもらったり、生徒や卒業生とのライブをさせてもらったり、セッションホストをしたりすることになりました。
 演奏活動を通して、僕は、たくさんのすてきなミュージシャンに出会いました。それからFacebookでも、たくさんの昔の友達に再会しました。そして今は、今までの研究の成果をかたちにしている段階です。ライフワークのひとつとして特に録音に力を入れ、2017年2月~18年2月の一年間は、4枚のアルバム制作にかかわりました。これからもペースは上げてゆくつもりです。
 初めて出会う人や、再会する人、たくさんの人たちと、ふたたび音楽で触れ合うと、あらためて、音楽は「言語」であること感じました。何年離れていても、初めてあったひととでも、心を通わせることができます。そして僕は、講師としてジャズを教えることで、言葉以外のもので他人と対話する「言語」を教えていたんだと思いました。その「言語」でこれからは僕も話してゆきたいと思うと同時に、その「言語」をひとりでも多くの人と共有できるよう、今は、YouTubeで「ジャズってなあに?」という、初心者向けの入門動画を配信しています。

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